| 2010年2月の井上力 |
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日付 |
見出し |
| 2月22日(月) | |
| 2月20日(土) | 竜頭しっぽはオタマジャクシ |
| 2月19日(金) | 市民不在のそこは座敷! |
| 2月11日(木) | 続・父の60回忌 |
| 2月10日(水) | 父の60回忌 |
2010年2月20日(土)の井上力
竜頭しっぽはオタマジャクシ
17日、改正労働者派遣法の法律要綱が労政審に諮問されました。きのうも緊急院内集会が開かれました。
私の娘も派遣会社に身を置き、一度は解雇予告通知を受け取りました。あるいは友人の息子が派遣会社を解雇されるような事例も頻発しています。50歳定年で、NTT、鉄鋼など、10年〜15年間の「高齢者派遣」や「もっぱら派遣」も身近な場で仲間が苦闘しています。六甲道駅で早朝行動をしているあいだにも、集まっては現場に連れて行かれるフルキャストやグッドウィルの日雇い派遣の「寄せ場」を目の当たりにしたこともたびたびで、神戸でも主要な駅前に両社の営業所が乱立しました。遠くの「えげつない働かせ方」ではなく、労働力商品の買い叩きがいたる所で進みました。それへの抵抗をよびかけてきました。
昨年10月から労政審の議論が再開されました。法律の名前を「派遣労働者保護法」に改めるとして見事な竜の絵を冒頭に描いたものの、これではまさに蛇尾。いやオタマジャクシのしっぽです。中身は自民党案と同じく、事前面接禁止を盛り込まず、ソフトウエア開発など、「われわれはITどかた。ネクタイを締めた製造業」と若者たちが呼ぶ業種も26業種に残したままとなりました。この点では規制緩和の様相です。 一部施行まで5年の猶予など、もってのほかです。1年も3年も立派に働き続けた労働者に、即刻、雇用の申し出をするべきです。厚労省は3月、4月を指導監督月間にするとし、各地の労働局では「ニセ26業種」の是正のための文書をだしています。
特に終盤、最後は「ここでまとめる」という公益委員と使用者側委員の発言が繰り返され、年末28日に労政審としての答申がまとめられるにいたりました。
「政治主導というなら委員を差し替え、せめて旧野党共同案に辿り着くような議論にすべきだ」「実態を使用者側より労働側委員が知らない」「古市委員(全建総連)の原則論(「'99年改正以前に戻せ」)に他の委員も同調すべきだ」などの意見が私の周りで主流です。
労政審の議論とその答申に、多くの団体から、意見書が上がりました。日本労働弁護団と派遣労働ネットワークの見解は必見です。日本労働弁護団は2月4日に抜本改正を求める意見書をだしました。
この問題も含め、新社会党灘総支部が「労働相談会」を開きます。以下はそのチラシです(実物はモノクロ)。
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2010年2月19日(金)の井上力
市民不在のそこは座敷!
11日の神戸市長定例会見がアップされ、発言は『神戸新聞』の報道どおりでした。橋下徹・大阪府知事が神戸空港を「失策」と発言したことについて、次のように言っています。
| 「失策というのは、言葉の意味からして、策をなくすということでしょう、エラーでしょう。神戸空港の取り組みについては長い歴史がありまして、昭和57年の時には、空港を神戸の沖合につくろうということが決まっていました。そういう状況の中、議会でのさまざまな議論を経て、また、国との協議を重ねる中、6空整という空港の計画をつくる年次にあたる、平成5年の段階で、その6空整の中で神戸空港が新規の空港として認められ、国に認知をしてもらったわけです。そして、震災前に実際の準備工事に当たる調査設計の費用が国で計上され、着工しようかと前準備に入ろうとしていたところで、阪神・淡路大震災が起こったわけです。そのような中、議会の中で議論もあり、反対派の方もいらっしゃいましたので、いろんなご意見をお聞きし、意見が取りまとめられ、その結果、空港を推進しようということになり、国でもその推進に向けて取り組みを支援してもらいました。そういったことに対し、前後の脈絡等も考えていただいて、きちんと整理した上で見ていただきたいと、何か自分の考え方がおありなのでしょうが、いわば他人の座敷に踏み込んでくるというような点について、私はよろしくないと思っています。」 |
きちんと整理すると以下のような「前後の脈略」があります。
(1)「昭和57('82)年の時には」、「関西新空港を神戸沖に」ということが神戸市会と神戸市幹部の間で「決まっていました」。しかし昭和49('74)年に第一次、昭和55('80)年に第二次と2度にわたって、航空審議会は「泉州沖が最適地」と答申、運輸省の計画案も昭和55年でした
(2)「平成5('93)年の段階で、その6空整の中で」、欄外記載の予定事業から新規事業へ格上げされましたが、関西空港離発着機は「つとめて 海上を飛行する」(三点セット)をめぐって、「空域調整は地元」という重い条件が付されました。この調整が終わったのは'94年12月17日でした
(3)「震災前に実際の準備工事に当たる調査設計」をしたのではありません。
・「なお、飛行場の設置許可の後、国の補助を得て実施設計調査を行い、神戸空港は既に事業着手済みの空港という位置づけがなされております」と、'98年11月12日の臨時会で、住民投票条例案を35万人の市民が直接請求したことに対する市長意見を笹山市長(当時)が読み上げています。後段の部分は空港裁判でも証拠として何度も俎上にのぼりました
・調査設計が「実際の準備工事に当たる」という珍説。「前後の脈略」について錯誤がないなら、基本構想も、基本計画調査も「工事に当たる」?
・震災は'95年1月。同「許可に係る公聴会」が約2年後の'96年12月、設置許可は'97年2月でした
・「空港整備法に基づく第三種空港の政令指定」「国の港湾審議会において、神戸港港湾計画に神戸空港の組み入れを承認」「実施設計調査費執行」は、'97年3月だったと『開港の歩み』が記録しています
(4)「着工しようかと前準備に入ろうとしていたところで、阪神大震災が起こった」というなら、とんでもないフライングで、「国の許可を待たずに神戸空港を着工しようとしていた」ことになります
ヘボ川柳では「お座敷のけんか市民は土間で見て――神戸VS関空・伊丹」と詠まれたのでした。橋下発言は以下のとおりです。
| 「大阪府の橋下徹知事は27日の記者会見で、来月16日で開港4年を迎える神戸空港について「結果からみれば絶対に失策。トップを選ぶのは神戸市民の判断。そういうリーダーを選んで進めた神戸市民に責任をもってほしい」と述べ、空港を運営する神戸市の矢田立郎市長と同市民を激しく批判した。(1月28日『朝日』など) |
百歩譲って脈略を深読みするとしても、神戸市長は(住民投票を頭ごなしに否定して)座敷に上がろうとする市民を拒んだあげく、市民不在の市政を「座敷」にたとえています。「奥座敷」から「関空の方が失策」という知事発言もありました。関空など合計4つの空港に関わる兵庫県のホームページに載っています。
国土交通省・成長戦略会議から目がはなせません。
2010年2月11日(木)の井上力
続・父の60回忌
普天間基地の移設先としてテニアン島が浮上しているというニュースを『毎日』などが報じています。第一世界大戦で戦勝国となった日本は、敗戦国ドイツからテニアン島を手に入れました。
広さから言えば普天間飛行場は5平方キロ弱(神戸空港島は2.72平方キロ)、テニアン島は101平方キロ(ウィキペディアより)、米軍攻撃前の1944年7月に島民は15,700名(軍人を除く、うち朝鮮人2,700名)、チャモロ人26名だったそうです(同)。陸海軍あわせて8,500人の日本軍が「東洋一の基地の島」を占拠、基地建設には1939年から本土から多数の囚人を含む民間人が動員され、米軍の上陸後は6本もの滑走路を持つ巨大な基地の島に。B29エノラ・ゲイが、1945年8月6日の早朝、広島へと飛び立ったことでもその名が刻まれています。現在の人口は3,500人。
きのう「父の60回忌」で書いたように父が予科練で教えていたのは「南方地理」でした。おそらくテニアンもグアムも、その後間もなく民間人を巻き添えに玉砕したサイパンも。
西洋史を専攻した父は、教壇ではギリシャ、ローマなど古い時代しか話さなかったそうです。授業でいちばん生き生きと語ったのはトロイ戦争で、津高等女学校の教え子たちは父が近眼でひ弱そうだったことから、ある日教室に行くと「とろい、とろい」と黒板にたくさんの落書きがあったそうです。予科練でまさかフランス大革命や大十月ロシア革命を教科としているはずもなく、南方地理だったのです。
サイパンの玉砕と米軍の巨大基地化を知った海軍は、そして連夜押し寄せるB29の大群に一矢報いたいと考えました。サイパン島の隣のテニアン島やその滑走路や巨大基地を、特攻攻撃の対象として、地理を予科練の若者の脳裏に刻み込んだのではないでしょうか。
2010年2月10日(水)の井上力
父の60回忌
きのうは母の連れ合い(私の父)が亡くなって59年、命日でした。法要はしませんが、60回忌。連れ合いに半世紀を超えて拝んでもらえるというのも、稀な例だと思います。
神戸から茨城空港(航空自衛隊百里基地)への定期便が就航するというニュースがあり、ビラをつくる際に地図を調べたところ、水戸や土浦から相当の距離の場所にできた国営空港でした。となりに自衛隊の滑走路があり、補助滑走路をつくる必要があったので防衛省ではなく国土交通省が2本目の滑走路(2,700メートル)を造ったのだそうです。 羽田と成田が災害で機能不全に陥ったとき、救援物資の基地とするという名目です。ちょうど関西経済同友会が神戸空港救済策として神戸空港を廃港し、国に買ってもらってはどうかと提案しているのと同じです。地方空港だと誤解されてもいます。
さて、その土浦で私の父は予科練の教官をしていました。
土浦の予科練で敗戦まで5か月過ごし、郷土の復興を担い、今も長野にお住まいのSさんのホームページを見つけ、けさ電話でお話をお聞かせいただきました。『折々の記』などたくさん発信しておられます。
電話する前に私がSさんに送ったファックスの一部は以下のとおりです。
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・・・(略)・・・父が公立学校に戻れなかったのは戦犯ほどではないにしろ、紛れもなく旧軍関係者で、実質、公職追放状態かと思っています。あるいは旧軍の復活をめざした人々にとって戦犯や遺族への恩給支給とあわせ、軍隊そのものの復活をめざすためには、若い軍人から声を上げさせる必要があった、父のような「失業・求職中」の存在が必要だったのではないかと思っています。・・・(略)・・・あるいは父は、乏しい情報のなかで「軍の復活」を待っていたのでしょうか? 私は以下のように考えています。 父は予科練で「南方地理」を教えていたそうで、・・・(略)・・・初めてこれを聞いたときはショックでした。父もストレプトマイシンができて10年近くたち、不治の病ではなくなる直前に死が訪れました。資源や技術の戦争への集中さえなければ、ムダな15年もの戦争がなければ、命を落とすこともなかったでしょう。愚かな戦争の加害者であり、被害者でした。・・・(略)・・・ |
「公立学校への復職」も再軍備も、願っていたフシはありません。当時、ご近所の農家の方に母が職業を尋ねられ、夫婦とも教員であると言うと「それはお気の毒に」という同情が帰ってきたそうです。戦争中ほどではないにしろ食べるものがない時代でした。
なぜ教員だった父が予科練の教官になったのか。「体の弱い役立たず」から軍服を着て「お国のために」働いたのです。総動員令下、当たり前だし同世代で徴兵されるより恵まれていたのでしょうが。母は「徴兵をのがれる道」だったのではないかと言います。