神戸市政と私たちの立場

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                        1997年5月

            新社会党兵庫県本部神戸市政問題プロジェクトチーム

2000年2月にレイアウトをやや変えました

執筆者「はじめに」吉田俊弘/その他 井上力

1.はじめに 押す
2.四半世紀の神戸市政をたどる 押す
(1)戦後を二分した73年市長選挙  
(2)宮崎市政から笹山市政へ  
  @70年代の都市経営論  
  A80年代の都市経営論  
  B笹山市政の誕生  
3.大震災後の神戸市政 押す
(1)最初から市民に目は向いていなかった  
(2)出遅れなかった初動体制  
(3)二次災害と市民が名づけた復興街づくり  
(4)大規模プロジェクト中心の復興計画  
(5)いまいっそう明白になった市民の声  
(6)空港のない街は衰退するか  
(7)生活再建にすべての力を  
4.被災地にふさわしい市長候補を市民の手で 押す
   
(参考)どのような街を地震が襲ったのか 押す

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1.はじめに

 5月16日、神戸市は空港問題に関連して行動していた井上力市会議員を刑事告発した。神戸の歴史をみても、そして全国のどの自治体においても、こんな例は皆無である。

 それにしても、宮崎辰雄・前市長にはじまり、笹山現市長に引き継がれてきた「都市経営論」とその体現者たる神戸市政も、ここまで来たかと思わせる出来事である。

 いろいろな市民が、その人生観、生き方を変えたといわれる大震災を体験しても、神戸市の姿勢は変わることがなかったし、むしろ住民との関係も含めて悪い方に強まっている。

 今、市民はどんな市長と市政を望んでいるのだろうか。市民が望んでいるのは、頭が良くて行政能力が抜きんでた市長ではなく、むしろ逆だ。少し泥くさくても、市民とともに行動し、ある場合には体を張って国とも対抗し一歩も引かない姿勢を示すことのできる市長である。住民不在のごうまんな賢人・官僚市政はもう終わりにしなくてはならない。

 神戸市政は、とくに1973年、革新市政として誕生した際に、全国の革新自治体の輝かしい実験の一つとして私たちも支持してきた。

 しかし、その神戸市政がどこから変質していったのか。党派としての私たちの自己批判も含めて、市民とともに検証しなければならない。

 そのなかから、今度こそ市民が本当に望む市政樹立の道筋が明らかになる。

2.四半世紀の神戸市政をたどる

(1)戦後を二分した73年市長選挙

 私たちは、旧日本社会党の一員として1973年市長選挙をたたかった。宮崎市政の2期目であったが「全野党共闘」対「田中角栄率いる自民党」という構図のもとでたたかわれたこの選挙は、神戸市政の戦後50年を前半と後半に画するものであった。

 戦災復興と高度経済成長のひずみは、公害問題を深刻化させた。公害を垂れ流して住民の健康を奪う大企業の横暴を規制できる自治体をつくろうという運動が全国化した。横浜(飛鳥田)、京都(蜷川)、東京(美濃部)に続いて次々と革新自治体が誕生した。兵庫県でも公害防止条例を議員立法で成立させ、「明るい革新○○」方式の社共共闘による革新自治体が指向された。その中心には総評に代表される、がんばる労働者の姿があった。春闘の高揚、ベトナム反戦運動の高揚など一連の流れのなかで、革新神戸市政は、すでに市会と市長が表明していた関西新空港の神戸沖建設を拒否する姿勢を鮮明にした。公害防止協定の締結、下水道の短期間での整備、保育所建設、老人憩いの家の建設、勤労市民センターなどの建設、全世帯アンケートの実施、ラロック証言を契機とした核艦船の入港拒否、法人課税の強化など、革新色が鮮明となる。

(2)宮崎市政から笹山市政へ

@ 70年代の都市経営論

 革新自治体は自民党政府の厚い壁の前ですでに苦戦していた。宮崎市長は、地方自治の本旨と財政自主権を主張しながらも、幅広い戦前からの人脈を駆使して中央省庁とのパイプを維持、すでに始められていた埋立事業を論理づけ、大規模化し、いわゆる都市経営が展開されていく。外債による埋立事業と土地造成を行うため、行政自身を公共デベロッパーと位置づけた。公権力が電鉄系コンチェルンまがいの事業を展開するために、外郭団体が数多く設立され、多用された。景気の変動によって左右される、嵐のなかの小舟のような存在である自治体財政を借金で解決することを理論化し、自ら起債主義と名づけた。

 六甲アイランドの埋め立てが提案されたのは市長選挙を半年後にひかえた73年春である。公明、共産の2会派がこれに反対したのを最後に当初予算は以後21年間、94年当初予算に護憲クラブ(当時)が反対するまで、議会に反対勢力はなかった。議会は76年に社公民体制が確立して以降、80年までの間に「議会改革」を終え、オール与党体制が磐石になっていく。委員会傍聴制度や陳情者が委員会で口頭陳述できる制度をつくり、それまで自民党が独占していた議長などの役職を社公民で公平に分け合った。予算委員会などの現状の形式もこの頃定着する。オール与党体制については、「77年以降、自民党が相乗りした」と批判することは簡単だが、名実ともに市長与党となった社共勢力が六甲アイランドなどの埋立などいっそうの開発事業に賛成したことが一つのポイントである。

 都市経営論は、公共デベロッパー、外郭団体、起債主義という三本柱で成り立っていたと言われているが、今日までなお常に三割の支持を得る社共勢力まで含めた議会のオール与党体制をこれらに加えて、四つの柱があったと言うべきであろう。

A 80年代の都市経営論

 都市経営論は、80年代の民活と規制緩和の時代に対応した方策として、時代の脚光を浴びる。2度のオイルショックを経てかげりが見えた日本資本主義は、教育や福祉にまで資本を参入させ、全社会に及ぶ効率化を追求し、自由主義の復活による再発展の道を選んだ。年金、老人医療、そしてついに87年、国鉄の分割民営化、89年には消費税実施に成功する。コメの輸入自由化、地方行革、そして小選挙区制など、残る課題はごくわずかとなった。

 ところで自治体は、当時の革新側から砦と呼ばれていた。自治体は、労働者にとっての国に対する抵抗拠点として、また、この議会を通じて住民が政治に参加する上で最も広い間口と多数の契機を得る場であると、私たちは考えてきた。しかし、70年代後半、労働運動の後退と前後して始まった革新自治体が押しつぶされていく過程は、公明党の与党化など野党勢力が分断され、住民のエネルギーを絶たれて議会と役所のなかで孤立し、選んだ首長を守るために汲々とする過程であった。国は容赦なく兵糧責めにした。地方交付税の配分、起債許可、補助金、職員定数の削減命令などで国は自治体を脅迫し、財政を圧迫した。

 宮崎辰雄の都市経営論は「最少の経費で最大の福祉を」と、要約された。国に対する抵抗の姿勢は消え、他の自治体と足並みをそろえて国に要求することより、抜け駆けして行政効果を上げることに力が入った。宮崎辰雄の晩年は、都市間競争を公言してはばかることがなかった。臨調・行政改革の時代の申し子として、他都市の手本とされた。しかし、ここでは住民が自治体闘争を通じて、賢くなることも強くなることも、なかった。どう人減らしをするべきか、どう節約をするべきか、どうすれば見かけがよくなるか。ここに住民が参加する契機はありえなかった。

 宮崎辰雄も主張した「地方自治の本旨」とは、団体自治と住民自治という二つの欠くことのできない要素で構成されている。しかし、都市経営論は、最初から住民自治という観点が欠落しており、今また団体自治も抵抗の姿勢を欠いた形だけのものとして、結局市民からかけ離れた存在になってしまった。

 81年のポートピア博覧会とポートアイランド売却の成功は、85年のユニバーシアードと総合運動公園、89年のフェスピックとしあわせの村へと継承され、西神、西神南、六甲アイランド、あるいはハーバーランドの開発・再開発へとつながっていく。

 ポートアイランドに市民病院を移転したことに、震災後、関係者から反省の声が上がった。大地震の発生と同時に市内のあらゆる病院が野戦病院と化したが、三次救急指定病院であった中央市民病院が最初にしたことは、入院患者を退院させたことであった。液状化、離島、高層建築は病院として適切でないという反省である。布引の跡地はダイエーのホテルになった。患者搬送には自衛隊が使われた。

 開発事業でできるだけ大きな利益をあげ、福祉に使う。そのどこが悪い、と言われた。しかし、借金返済は待ったなしであり、「最少の経費」とするため、合理化・効率化は福祉・教育の分野でも熱心に進められた。西戸田養護学校の廃止、幼稚園の休園、恵泉寮廃止の容認、知的障害者雇用訓練の手当削減、学校再開発と称する統廃合、各種収納率の向上運動、外郭団体への出向による定数削減など。国は年金制度を「充実」したことを理由に容赦なく生活保護を打ちきり、これをわれわれは福祉切り捨てと呼んだ。神戸市は「一日あたり1億円もかかる生活保護を適正なものに」と、認定を厳しくした。

B 笹山市政の誕生

 バブル経済の絶頂期に笹山幸俊は市長として登場した。基金は一般会計、特別会計あわせて6,000億円に膨らんでいた。税収が伸び、造成土地は高値で売れた。公共料金は値上げを先送りした。地上げ屋が街を闊歩し、高齢者は借地、借家から追い払われ、跡にマンションが林立した。再開発ビルのマンションも分譲直後に億ションになった。住んでる人には不評の斜面住宅でも、もてはやされた。次々と人工の海水浴場が設計され、消防署に高価なステンドグラスが使われた。

 89年の市長選挙で笹山は「やさしさとぬくもり」「参加と対話」をかかげ、切れて冷たい前市長との違いを前面に出した。対抗馬となった宮岡が超中央指向、ウルトラ開発指向であったこともあり、埋め立ては抑制する、と公約された。93年の選挙も含めて空港は選挙公報に記載されなかった。

 当選直後の市会で特養の市街地立地が表明され、老人いこいの家の改善が表明された。市長選挙を全力でたたかった市の職員は、息の詰まるような前市長時代と異なる空気に接して生き生きとした。組合の先輩であり仲間が市長となったことを喜んだ。

 資本は自己増殖する。公営企業も外郭団体も、前市長が教え込んだ健全経営の結果、内部留保をふんだんに蓄え、資本の投下先を求めた。とくに土地造成は、もとが公有水面か山林、原野であることから、原材料コストは極端に安価であることにその特徴がある。一方、陸のゼネコンと対比してマリコンと呼ばれる海洋土木業者は、埋め立て免許取得が自治体の権限であることから、一度仕事をした自治体から離れないと言われている。埋め立てが次の埋め立てを準備し、従って大都市圏の三つの湾では果てしなく埋め立てが続けられる。「埋め立ては抑制する」という公約は反古にされた。

 民活賛美の大合唱は、宮崎市政の末期から笹山市政にかけて一段と大きくなった。土地売却についてもコンサルが企画し、役所に売り込むという姿が常態化し、とうとうコンペ方式で売却することが競争入札より優れた方法だと錯覚するような事態にまで至っていた。よほどの強い意志と監視がなければ、開発は止められない。

 しかし、バブル経済はやっぱり破綻し、間もなく大地震が神戸を襲った。

3.大震災後の神戸市政

(1)最初から市民に目は向いていなかった

 地震の発生からほどなく設置された災害対策本部は、情報を遮断されたまま、助けを求める市民に応えず、外部から寄せられる善意・悪意の申し出に対応を迫られた。

 17日夕刻に「招集」された市会の全員協議会(全体議員総会)は、わずか十数人の出席で「災害復旧と市民生活の安定につくすことを強く望むとともに、笹山市長を先頭とする災害対策本部の活動を議会として全面的に支援する」ことを決めてしまった。招集が可能かどうかの判断さえできる状態ではなかった。長老議員のカンと経験に役所全体が頼る体制がその後続くこととなる。

 市長はその朝、山下局長(当時)の車で役所に駆けつけるとき、落橋やビルの傾きを気にしていたという。ほとんど民間の手で行われた救助活動や、逃げまどう市民の姿を市長がどう見たのか、山下局長の口からは少なくとも語られなかった。殺到したテレビカメラの前に立ったのは広報課長であり、20万人が自力で逃げ込んだ避難所や、避難所に入りきれず野宿を続けた多くの市民を、市長が訪ねることもなかった。「顔が見えない」と市長は非難された。後日、「パフォーマンスの嫌いな市長ですから」と与党議員が擁護し、「避難所訪ねて市長が被害を知ることがなんでパフォーマンスでっか」とやりこめられるラジオ番組があった。市長の「不眠不休」は、その後たびたび美談となった。

 職員は出ない指示を待ちきれず、区役所に運ばれてきた遺体を自分の車で、自ら依頼した仮安置所まで運んだ。被災地の多くの管理職は無能であるか、出勤できないかであった。マニュアルどおりにだれよりもよく働ける管理職は、マニュアルに想定されていない事態の発生とともに無能となった。マニュアルどおりに働かないが故に管理職に登用されない職員の機転が利いた。10万人を数えたボランティアとともに避難所で名簿をつくり、班分けをして自治組織をつくったのは、このような職員であった。2月に入ると職員の自主的な活動はすべて規制され、全てがボランティアに委ねられた。

 市民が近隣の人々を救助し、ほとんど自力で避難生活を始めたことは、語り尽くされている。そして犠牲者が本当は1万人を数えていることも、語りつくされている。

(2)「出遅れ」なかった初動体制

 19日に市会の代表者会が少数会派も交えて開催されたが、その際、被害が全壊2,309棟など調査不十分な状態のままで仮設住宅を2,000戸建設し、公営住宅の空き家500戸を被災者用に転用するという方針が示された。救助・救援活動や被害調査より「対策」が先行する悲劇がスタートしていた。

 その一方で、18日には都市計画局の職員が私服で市内に散り、都市計画の基礎資料づくりの「調査」を行った。20日に建設省の課長らが計画を持って神戸に乗り込んだ。25日に溜水建設省審議官(当時)が神戸を訪れて、建築制限から区画整理・再開発へといたる合意がなされた。26日には震災復興本部が設置され、市政の重点は早くも救助・救援から復興と復興後へと移された。

 27日から始められた仮設住宅の募集は、2月2日を締め切り日としていた。要項には入居期間が「入居後6か月以内」であると、わざわざこの部分だけがゴチックで書かれていた。6か月で街が元どおりになると信じた市民は皆無であったであろう。一方、募集の開始が早すぎることを当時非難する者はなかったが、り災証明の発行計画が発表されたのが2月2日、り災証明発行の開始が6日であったことから、いかに「調査より対策優先」であったかが明らかである

(3)二次災害と市民が名づけた復興街づくり

 2月15日開かれた神戸市会は、「議論しとる場合ちゃうんや。被災者がクチあけてまっとるんや」などの、汚いヤジのなかで復興緊急整備条例を決めた。6,000fにおよぶ震災復興促進地域と重点復興地域が指定された。市長が「計画を定め」、市民が「協力する」ことをうたった条例であった。「復興街づくり」と称する市の都市計画決定は3月14日、県は17日であった。

 都市計画決定は、長田20f、六甲6fの2地区の巨大再開発と、森南など6地区233fにおよぶ区画整理を中心としていたが、同時に「道づくり」と称して街路事業の事業計画への格上げも行われた。

 復興都市計画をめぐる市当局と市民とのやりとりは、その後周知の通りである。法律をタテに非を改めようとしない行政と、「法律に無知な(ゲンブ、イテンホショウキンなど)」市民とのあらそいで最後に行政が笑ったからといって、後世、だれもこれを評価することはないだろう。法外手段として、市は官製の「まちづくり協議会」をつくり、「まちづくり会館」、「コンサル活用」とあわせて、これを三位一体の手段として、法の強制力と市民の間の緩衝帯としようとしたが、ここにも生き生きとした市民の声が入り込む余地は、なかった。狭い道路、通路と住宅の密集状態が、大災害の一つの要因であるとしても、最初のボタンのかけ違いは余りにも大きい。しかも2年以上にわたって、ボタンのかけ違いに目をくれず、既成事実を積み上げた、その罪は大きく、取り返しがつかない。

 被災地で進行する「著しい住宅不足とおびただしい住宅過剰の同時進行」の全ての責任は市長が負うべきである。「バラックの街」「仮設の街」となることを避けたかったという。しかし、こうしてできた街は何という街か。ハウスメーカーが競って建てたプレハブ住宅の街と化した被災地は、「記号文化の街」とあえて酷評されている。

 「元どおりにする」ことから出発せず、「元どおりではいけない」ことから出発した復興計画の悲劇である。

(4)大規模プロジェクト中心の復興計画

 大震災直後、「機能停止状態」と思われていた本庁で進められていたのは、震災前の大型プロジェクトの継続のための理論武装であった。救助救援優先と称して職員を出先に割き、トップレベルで次々と復興計画がつくられていった。1月19日には港湾の利用者に対して市長名の「おわび」が出された。市民に広報紙を通じて市長が「おくやみとお見舞い」を初めて述べたのは27日であった。1月30日には六甲アイランド南の埋め立てが、委員をヘリコプターや船で会場へ運ぶという文字どおり異常事態のなかで決定された。1月31日には復興計画検討委員会の設置と、復興計画策定が6月末であることが公表された。2月15日、復興緊急整備条例とともに復興計画審議会の設置が条例として可決されたが、審議会の発足は4月22日であり、検討委員会が「ガイドラインを作成する」として計画の大要を3月27日までに決めてしまった。

 復興計画では、目標年次を2005年として、@市民のすまい再建プラン A安全で快適な市街地の形成 B21世紀に向けた福祉のまちづくり C安心ネットワーク D東部新都心計画 E神戸企業ゾーン F中国・アジア交流ゾーン G21世紀のアジアのマザーポートづくり H神戸文化の振興 I交通ネットワーク JKIMEC構想の推進 K地域防災拠点の形成 L水とみどりの都市づくり M海につながる都心シンボルゾーン N災害に強いライフライン O災害文化の継承 P災害科学博物館および20世紀博物館群構想の推進 という17のシンボルプロジェクトを掲げた。

 その全体像は震災前のマスタープランそのものであった。

(5)いまいっそう明白になった市民の声

 被災地で市民は余りにも多くの課題と直面した。水や救援物資の確保、避難所の生活改善、情報の収集、り災証明への疑問、義援金の配分、公費解体、仮設住宅の応募と抽選発表言いかえれば戸数と建設場所の問題、仮住まいの確保、高齢者や病気の人の保護、子どもたちの疎開、ガスや水道の復旧、住宅や宅地の補修・復旧、震災解雇や震災リストラとの直面、営業の再開、様々な資金貸付の条件、生活費の確保、避難所の閉鎖問題、仮設住宅での生活改善、仮住まい先での人間関係、仮設住宅の統廃合あるいは撤去問題、公営住宅の募集に関すること、・・。もちろん、その間ずっと、そして今なお、住まいの再建、あるいは住む場所の確保は、課題であり続けている。しかもそれは、資金、融資、建ぺい率、隣地境界、接道条件、側溝整備など様々な問題に直面し、相談すれば協調建て替えと共同化が画一的に回答され、また悩むという困難に出会ってきた。マンション再建の困難は言うまでもない。また、今なお極端に広大なサラ地が目立つところには、借地・借家問題の未解決が必ずある。そして唯一既存の公的援助である基金を使った利子補給などの制度も、厳しい要件のため、活用できない人々が多発している。

 今なお、数万の人々が仮設住宅に暮らし、やはり数万の人々が仮住まいし、またおそらく数万の人々が市外、県外に身を寄せたままである。孤独死は150人を越え、その予備群が数倍はいると言われている。

 これら被災者が直面した膨大な課題に、行政は応えることができなかった。市民と直接対応した現場の職員の声が、どこかでかき消され、返ってきた回答は概して冷ややかであった。大震災後、すべての市民が多かれ少なかれプライドに傷が付いた。しっかりした家を建てたはずだったのに、壊れてしまった。近所づきあいは人並み以上であったはずなのに、トラブルが発生した。会社に貢献してきたのに、来なくていいと言われた。様々な情報が入ってこない。この上、役所に相談に行くと「甘えるな」「頼るな」とでも言わんばかりの対応にいっそう落ち込まざるを得なかった。

 被災地では、医職住という表現が登場した。

 いつでも、どこでも行政に市民が期待するのは、福祉・医療、仕事と生活費の確保、良好な住まいの確保である。震災後の神戸にあっては言わずもがなであり、「人間の国」「人間の街」は医職住が整う街である。

 全世帯アンケートは、70年の第1回から81年の第11回まで毎年実施され、それ以降は隔年実施となっているが、「力を入れてほしい市の施策」では、「公害」や「自動車排ガスや路上駐車など自動車の規制」「社会福祉」「住宅建設・住宅環境」「病院・保健」などの項目が常に上位にあり、「港湾の振興」「産業の振興」「観光の振興」は、最下位かそれに近いところに常に位置してきた。(94年3月発行のデータ集)

 震災前の市民の声は、震災後さらに大きくなっており、震災前の市の方針は復興計画で見たように震災後いっそう大規模プロジェクトに偏っている。そして両者は余りにもかけ離れてしまったといえよう。

 そのきわだったものが、神戸空港問題と公的援助をめぐる姿勢の違いである。

(6)空港のない街は衰退するか

 先に触れたように神戸に空港を建設する構想は、当初、新関西国際空港を神戸沖、泉南、淡路のいずれを候補地とするかという問題として提起された。72年の反対決議でこれを神戸は返上した。市民が環境保護の観点から大きな声をあげ、市会と市長がこれに応えた。しかし、これから10年、ポートアイランドが完成し、ポートピア博覧会が成功した神戸に、財界は一度は消えた空港建設の芽をふたたび育てようとした。人工島の安全性は立証されたではないか。既成市街地から離れた海上空港は騒音の影響が少ないではないか。経済効果、大阪からの交通手段、いずれをとっても候補地として最上ではないか、というものである。

 市会の誘致決議にいたる直前に、社会党兵庫県本部はかねて繰り広げてきた伊丹空港の撤去運動との整合性を計るとの立場から、空港対策特別委員会を開き、市会議員団との調整を重ねた。「伊丹は欠陥空港であり、公害対策に万全を期すこと。最終的には撤去すること。新国際空港は、安全で、公害のない、市民に財政負担をもたらさないことが条件」を骨子とする方針を決めるにいたる。

 このようにしてついに82年、神戸市会は10年前の決議と正反対に、関西新空港の誘致へと乗り出した。しかし、国の方針はいまさら変更されることなく同年、関西空港は泉南沖に建設されることが決定された。市長と市会の屈辱感は察して余りある。

 なお、後に大問題となる「三点セット」は、このとき合意され、和歌山県、大阪府等が「つとめて海上を飛行し、低高度では飛ばない」ことを条件とした。兵庫県はこの合意にすぐには加わらなかった。

 88年の第5次空港整備5か年計画では、ついに欄外記載ながら神戸空港が予定事業として位置づけられた。さらにバブル経済全盛時の90年、伊丹空港について、地元十市協が廃止から存続へと動揺を見せるなか、神戸市会は3月、第6次空港整備5か年計画への神戸空港の組み入れを求める意見書を全会一致で採択した。大前提には、伊丹廃止という国の方針がまだ残っていた。

 伊丹の存廃問題で、廃止から存続へと国が閣議決定で方針を変えたのは、この年の秋である。

 93年8月、できたばかりの細川内閣は第6次空港整備5か年計画のなかで、神戸空港を予定事業から新規事業へと格上げした。明石海峡を神戸空港の離着陸路として譲り、関西空港の飛行経路を淡路島上空へとシフトする「空域調整」は「地元が解決する」とされた。淡路から抗議の声が起きたのは当然である。社会党市議団は紛糾し、11月、空域調整に異論を唱える請願の紹介議員とその同調者4人は無所属となった。なお、淡路1市10町と兵庫県がこの問題で「合意」したのは、94年12月17日、大震災のちょうど1か月前であった。

 神戸空港には問題が山積している。第一に、埋め立てによる環境破壊、騒音、発生交通による大気汚染など総じて環境問題。第二に、安全航行を可能とする管制や、なお淡路全島に影響を及ぼす空域の問題、これは関空の陸上ルート飛行問題とも絡んでいる。第三に、2,600億円の外債償還と250億円の市債償還、あるいは関連事業費数千億円といわれる財源の問題。第四に、供用後の収支の問題。第五に、空港島までの中・大量輸送機関を何にするかという問題、そしてその収支の問題。第六に、埋め立て土砂の調達問題。第七に、何より、伊丹と関空に加えて大阪湾に三つも空港が必要か、などである。

 百歩譲って、仮にいずれ神戸空港が必要になるとしても、いまの神戸に空港を着工し、建設するだけの余力と合意は生まれない。すべての力を市民の生活再建に注ぐ必要があるということに、市民の合意があるからである。

 勤勉な市民が暮らす街は衰退することはないのに、空港のない街は衰退するという。その論拠は何も示されていない。

(7)生活再建にすべての力を

 生活再建のための採用すべき手法について、現市長と市民の意見は一貫して食い違ってきた。個人財産の補償を求める声と、公的援助との違いが分かりにくいこともその原因であるが、市会与党と市長は、97年3月まで常に国と同じ立場に立って、この問題に対応してきた。公共施設の復旧費や特定事業等復興予算の獲得には万全を尽くすが、市民の生活再建を援助するための国の制度創設には、消極的であり続けてきた。

 しかし、災害廃棄物処理費という名目で工費解体を、星が丘で唯一行われた街路の確保という名目や、上細沢など私道助成の名目でいずれも擁壁の復旧を、また、住市総で共用部分の8割補助など、歴然とした「私有財産」に公費が結果として投じられてきたことも事実である。いずれも「変化球」を編み出した役所の知恵の成果であるかのように言われているが、そこには被災市民の一大運動があったことが忘れられている。

 97年3月末以降ようやく「踏み込んだ公的支援」をかかげるにいたる背景にも、小田実、早川和男氏らの1年以上に及ぶ市民=議員立法運動とそれを支持する被災地の熱い願いがあったからである。

 港湾、鉄道、道路、公共施設の復旧に公費が投じられたのは、それが公益にかなうからであり、市民の生活基盤の回復は、まさに公益にかなうこととして、取り扱われねばならない。また、戦災復興計画の特別法制定のための住民投票が戦後5年経過して行われたことからしても、被災地の復興計画を市民が定めるのは、まさにこれからである。

4.被災地にふさわしい市長候補を市民の手で

 新社会党は、その出発を94年2月の県議団、市議団(護憲クラブと憲法を生かす市民会議)の発足においているが、8月の護憲社会党県本部の発足、95年県・市議選を経て、96年3月の新社会党としての誕生以降のみの歴史しか持っていない。しかし、述べてきた70年代初頭以来の、神戸市政との関わりのなかですべての党員が、市政と向き合い、市政を市民のものとするための努力を続けてきた。ある者は議員として、ある者は住民運動のまっただなかに身をおいて、ある者は自治体労働者として、またすべての党員は、立法、行政、司法と並んで地方自治が、独占資本の横暴を許さない民主政治の発展と国の改革につながるものであることに、強い確信を持ち、市民に支えられて活動してきた。

 従って、旧社会党時代も含めて、市政と市民の関わりを総括し、今後の展望を明らかにする責任を持っている。

 73年に誕生した革新神戸市政は、埋め立て行政の追認や、労働運動の後退から、程なく弱体化し始めるが、実際に革新市政でなくなった時期は市会が空港誘致を決定した82年である。前述したように、エネルギーを絶たれた職員や議員は、なおも革新市政の継承・充実にその後も全力を上げ続けてきた。その力が弱かったことも、また市政の弱点を公開して、市民とともにこれをただす努力が欠けていたことについても、率直に市民にお詫びする。また、94年まで続いたオール与党体制が、実状を市民に見えにくいものにしていた。

 しかし、大震災とそれに続くリストラや活動家の排除、住民運動敵視の姿勢や、被災者に冷たく映る市政の本質が顕著になるに及んで、いまこの市政を最善の市政と呼べる人は、もはや一人もいなくなった。

 いま、地方自治は大きな転換局面を迎えている。市民主権の地方自治制度の発足から50年、革新自治体を全国で試み、神戸で誕生させてから四半世紀。情報公開を求める運動、環境保護、自然との共生を求める運動、女性たちの政治への華々しい登場、などの一方で、過去の借金が財政を圧迫し、開発優先施策にも顕著なほころびが見えている。豊かな長寿社会への展望も切り開かなければならない。先人が築いてきた土台の上に市民が主役の市政を打ち立てよう。

 人間は無から有をつくり出すことはできない。しかし、この不可能に神戸市政は挑戦してきた。製鉄や造船に代わって、原動力となる産業を誘致しようとしてきたが、実を結んでいない。

 いま神戸にある条件、人と技術と手段が成長し、進化し、新しい産業を生み出していくこと、古い産業が再評価されること。人間が暮らしていく上で不可欠なものを供給できる街は発展する。不要なものや有害なものに人々がだまされ続けることはない。

 私たちがめざす新しい神戸は、まず何より人間の街であることから始めようではないか。人間が働き、住み、憩う街であることから始めようではないか。

 市民、諸団体、政党が一列に並んで、被災地にふさわしい市長をつくり、そんな街をつくるため誠実に話し合おうではないか。

【どのような街を地震が襲ったのか】

 神戸は明治までは漁港であって、川がなく、自給自足型に暮らすことのできないまちであった。今でも自己水源による水の供給は4分の1。西区にため池が多く見られるように必ずしも豊かな農村地帯とは言いがたい。城下町や門前町でもない。封建制を破壊するだけの資本の蓄積も十分ではないままに明治維新を迎えた。

 1868年に外国貿易が始まると、清盛以来の貿易港としての、そして港町としての神戸への人口集中が始まる。さらに神戸が大都市へと大きく変貌するのは、軍事国家化の時期であった。当時の市域のほぼすべての海岸線が造船、製鉄、機械を中心とする大工場となり、中四国からの豊富な労働力、アジア太平洋戦争ではこれに朝鮮半島や大陸からの労働力が加わり、日本有数の工業地帯がつくられていく。大きな生産力に見合った住宅地として周辺の町村合併が行われたが、労働者の住居はなく、大震災までつづく借地と借家が主要な居住関係となる。

 戦後は、生産設備は空襲で破壊され更新されたことや新たな埋め立てなどの好条件のもとで、神鋼、川鉄、川崎重工、三菱造船、三菱電機などが戦災復興と高度成長のけん引をする。中小企業や地場産業はその都度生み出され、一定の役割を果たすが、相対的に弱いまま推移する。再び農村から労働力が集められ、周辺の町村を吸収する。当初は社宅が準備されたが、やがて退職金に大幅に食い込むローンで労働者は住居を買わされた。民間の田畑も無秩序に15坪単位の住宅地として切り売りされ、あるいは貸し出された。しかし、自動車産業や石油化学産業が立地しなかったこともあり、神戸の主要産業がかげりを見せるのにさほどの時間は要しなかった。これらの企業が明治以来蓄積してきた資本の一つの姿である社宅用地や下請企業に貸与されていた土地は、これらの企業の不動産部門によって分譲され、これらの企業の資本蓄積に貢献してきた労働者が建て売り住宅を購入して、これらの企業が海外進出するための資金をつくり出した。

 大企業が生産設備を神戸から撤収し始めたとき、前述の「都市経営」が始まる。新たな港湾と住宅用地、そして工業団地を造るため、山が削られ、埋め立てが行われた。真珠、アパレルなどのファッション産業、ホテルと国際会議場による観光都市化、NECや横川ヒューレットパッカードなど先端産業の誘致、P&Gなど外資系企業の誘致、次は空港を核にして医薬品研究所の誘致やマルチメディア関連産業だと、私企業より一歩も二歩も「先を読んだ」と自画自賛される「都市戦略」が打ち立てられてきた。いまや方向を打ち出せない経済学者にならって、「成長分野の企業を誘致する」と「先を読んでいる」。

 産業構造の転換と企業の流出。人口の増加にもストップがかかりかけた60年代末、市長に就任した宮崎辰雄は下水道整備や保育所建設など「シビルミニマム」を市民に約束する一方、公共団体自身が開発業者となること、起債で税金を先食いすることは世代間の負担の公平化という観点から良いことであって戒めるべきことではないということ、外郭団体を多くつくり職員に経営センスを身につけさせること、などを柱とした「都市経営」をかかげた。宮崎の「都市経営戦略」は、三割自治に対して多くの革新自治体が選んだ中央への抵抗による財政確立、自治の拡大という道ではなく、土地造成、企業誘致、住宅団地の建設による税源の確保に目標をおくものであった。いわば他都市との協調による自治制度の変革ではなく、他都市との競争を勝ち抜くことをめざすものであった。先に触れたとおりである。

 

 地震発生直前の神戸は、どのような自治体であったか。

 まず第一は、「経営センス」と防災計画について。「株式会社」ともてはやされた経営センスが、防災計画の議論にあたって、専門家の忠告をしりぞけて「震度5の強」までしか想定しないという結果をもたらした。安全、暮らしや福祉は「経営センス」と折り合いがつけられるものではない。

 第二に、埋め立て地に企業誘致を行い、税源はどう確保されたのか。雇用確保のために工業団地を造成するといわれてきた。西神工業団地の従業者数は当初計画の約半分である。他の街と比べて、工業団地を造成したことによる税収面での効果はどうか。京都と神戸は人口がほぼ同じながら、法人市民税収は京都の方が多い。京都の企業の方がよく儲かって市に財政面で貢献しているということを意味している。大貿易港があり、海岸線を大企業の工場に明け渡し、埋め立て地にも山を削ったあとの工業団地にも、企業をはりつけている神戸と、一見してお寺や神社ばかりで商売は苦手そうな京都。印象とは正反対なのである。「都市経営」は空回りしてきた。

 第三に、起債主義。埋め立て費用を外債で調達するということも、短期に償還するため造成から売却までを短縮するということも、他にないアイデアとされてきた。しかし、30年や40年の間にこれだけの公有水面を埋め立てて切り売りしてしまったことは必ず後世の批判を呼ぶ。一般会計にも「起債のススメ」が徹底して、大震災前にすでに起債制限直前まで悪化していた。大震災で市債残高はさらにふくれあがり、赤字再建団体に指定されないよう国に陳情する姿は、やっぱりキリギリスがアリに助けを求める姿と二重写しになる。

 第四に、住宅の質の問題。宮崎辰雄の著書『都市の経営』には、「住宅の経営」という章がある。公営住宅の管理を住宅供給公社に委託していることや、都市計画で老朽住宅が改善されたことなどが書かれている。大震災後、宮崎辰雄は「戦後いろいろやってきたが、長田などでは住民の抵抗があって、やるべき区画整理ができなかった」と大火災の責任を住民に転嫁する発言を繰り返した。山を削ってできたニュータウンに都市計画の思想が貫かれていることは自慢すべきことでも何でもない。近鉄だって西武だってやっている。今回と同じように人の住んでいない所に道路や公園の計画をつくるのなら、それも「広い道路、大きな公園、高いビル」を画一的に地図のうえに書くのなら、誰でもできる。問題はすでにある住民の住まいと住み方を改善するために住民の知恵を引き出し、工夫して計画決定することではないか。住民の発案と相互の討論を手伝うことであるはずである。だがこの街では公共の利益の体現者は常に行政であり、住民は利己的で愚かなものだという考え方が貫かれてきた。

 前述のように田畑が無造作に造成され、15坪の土地に10坪の二階建て住宅が戦前から戦後にかけて多数建てられた。製鉄所や造船所勤めの労働者がここで子供を育て、今は老夫婦だけの世帯となっている、あるいは単身の老人世帯となっていた。多くは借地のまま、あるいは借家のままで。大震災前の一般的な民間住宅の姿である。行政による建て替え助成や住宅改修助成、家賃補助制度が始まっていたが、助成も家賃補助も利用するケースはきわめて少ないままに、制度が毎年のように手直しされてきた。古い木造住宅は改良されず、居住環境もよくならなかった。88年の統計では神戸には戦前の住宅に6.9%の人々が住み、戦後15年間に建てられた住宅に12%の人々が住んでいた。70年までに建てられた住宅に住んでいた人々の割合は戦前のものまで含めて41.2%にのぼる。このほとんどが大震災で揺れの大きかった地域にあった。大阪48.5%、京都40.5%と、京阪神では平均的な数字であるが、共通して対策がなかったことを示す数字でもある。

 第五に、在宅福祉。94年の全国高齢者福祉マップで59の都道府県・政令市のなかで最下位から三番目。ホームヘルパーはわずか65人。都市経営は高齢者置き去りの市政であった。

 第六には、議会の体制。このような特異な体質の自治体を支え続けてきた議会の体制は、社共勢力を含むオール与党体制であったということも、たいへん重要な事実である。

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