井上力が
「あかね雲」に書いた

阪神淡路大震災の本当のことは住居の問題にあらわれています 画 Sachiko Tanabe

 97年から98年にかけて21か月間、神戸土建の機関紙『あかね雲』に、「住まいと私U」という連載をしました。仲間の皆さんから、そのつど、貴重なご指摘や感想をお寄せいただきました。心から感謝申し上げます。地方自治にとって「住まい」は、きわめて重要な問題です。「すまい」から「まち」「くらし」のあらゆる分野で新社会党が運動を起こし、住民の信頼を得ていくことができるよう、これからもがんばります。
(99年12月 井上 力  レイアウトを04年1月に変更しました)
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97年4月 (はじめに)
 
97年5月 すまい・る六甲のこと(1)
 衣食住から医職住へ
97年6月 すまい・る六甲のこと(2)
 借地問題解決型の共同再建
97年7月 すまい・る六甲のこと(3)
 「準区画整理だ。出ていけ」
97年8月 すまい・る六甲のこと(4)
 仮住まい先から集まって勉強
97年9月 すまい・る六甲のこと(5)
 おおむね希望かなった再建
97年10月 記号文化の街(1)
 市長選挙やってました
97年11月 記号文化の街(2)
 最後の一元募集のさなかに
97年12月 記号文化の街(3)
 いかに元通りになっていないか
98年1月 記号文化の街(4)
 住宅不足と過剰供給の同時進行
98年2月 「すまい復興プラン」(1)
 震災三周年の集会開きました
98年3月 「すまい復興プラン」(2)
 再建住宅の質と形が問題
98年4月 「すまい復興プラン」(3)
 コレクティブハウジングてん末
98年5月 「すまい復興プラン」(4)
 従来の住み方否定の再開発
98年6月 「すまい復興プラン」(5)
 ハッピーアクティブタウンです
98年7月 「すまい復興プラン」(6)
 消えた木造住宅
98年8月 「すまい復興プラン」(7)
 解体はこれから
98年9月 「すまい復興プラン」(8)
 神戸空港・住民投票の署名
98年10月 「すまい復興プラン」(9)
 住宅ゼロのポーアイU期
98年11月 「すまい復興プラン」(10)
 目立つ売れ残りマンション
98年12月 「すまい復興プラン」(11)
 レッキーさん来たる

ご意見歓迎
chikara<cg.mbn.or.jp まで

<97年4月>

 組合員の皆さん、永らく紙上でご無沙汰をしましたが、機会を得て、連載の枠をつくっていただくことになりました。ご配慮をいただいた執行部、編集部に心から御礼を申し上げます。貴重な紙面を汚すことのないよう、がんばります。
 もう8年も前の「住まいと私」から、バブルとバブル崩壊、そして大震災をはさんで、神戸の「住まい」をめぐる状況もすっかり変わりました。でもやはり「住」は人間生きていく上で大切だということに変わりはありません。衣食住から医職住へ。「医職住」はいまや役所も公式に使うようになりました。
「衣」が医療と福祉にかわり、食より職と呼んだ方がぴったりする。しかし、「住」だけは変わらず大切だということでしょう。
 組合員の皆さんが携わっておられる仕事の重さ、行政の課題は何か、そして私の経験などをこの欄をお借りして報告します。お叱りのご意見歓迎です。

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<97年5月>すまい・る六甲のこと(1)

 大震災後、借地に関係した問題の相談を無数に受けました。同じ地主の借地人どおしで会合を持ったケースだけで、30をこえました。残念ながらそのほとんどは、もとの場所での再建には至りませんでした。私などに相談に来られるということは、そもそもトラブルがあったからだということを割り引いても、マンション再建と同様、解決の難しさを痛感しています。
 これら30をこえるグループのうち、「はまだ町住まいづくりの会」は、5月末竣工をめざして共同建て替えが進行中です。場所は浜田町2丁目、阪神電車石屋川車庫のすぐ西です。
 10軒の借地人と隣接3軒で「行き場のない人をつくらない」を合い言葉に2年間、会合は50回近くになります。建物の名前も4月12日にやっと決まって、「すまい・る六甲」と、名づけられました。みんなが微笑んで暮らせる住まいにしたい。「る」は、フランス語の定冠詞で、他にないという意味を込めています。

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<97年6月>すまい・る六甲のこと(2)

 大震災直後、地主の代理人が「ここは『準区画整理』に指定された。元どおりの建築は絶対に不可能」と、住民たちを集めて通告したところからこの「物語」は始まりました。重点復興地域という市の指定が、こんな風に利用されました。
 現地は一筆の土地に、公道に面して4軒、狭い通路をはさんで裏側に6軒、さらにこの通路につながって2軒が建ち並んでいました。通路を4b確保すれば、たしかに、とても元に近い形での建築は不可能です。
 地主の代理人の主張は「借地の存続は無理だから、マンション(借家)を建てるので、希望者は住んでもよい。2DKで狭いという者は2戸借りればいい。この際、出ていく人には1戸あたり何十万円かは地主が出す」というものでした。
 そんなバカな話はない。あの地主がそんな無茶を言うはずがない、これは暴力だ。そう、みんなは考えました。苦悩の相談が始まり、住まいづくりの会は、こうして誕生しました。

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<97年7月>すまい・る六甲のこと(3)

 どこでも例が見られるように、「はまだ町住まいづくりの会」の人たちは当初、地主の代理人から「準区画整理地域!?に指定された」「ここには元通りには家を建てられない。1軒何十万円か渡すから別に住むところをさがせ」と言われました。現地に呼び出して「通路を4b確保するとこんな小さな家だ」と「説教」が始まったと言います。
 役所へ相談に行くと、「民・民の話ですから・・」という回答。
 「住まいづくりの会」ががんばったのは、ここからでした。連絡網をつくって個別交渉には応じないと確認。地主との直接交渉、代理人との交渉、弁護士さんとの相談・・。9月には神戸大学の平山洋介先生や設計士の向井志郎さん(東京)からアドバイスを受けはじめました。
 最初は長屋プランから出発しました。「再建が可能だ」ということを模型をつくってもらって確かめあいました。地主がどう言おうと、とにかく建てることだという信念を、励ましあって強めていきました。

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<97年8月>すまい・る六甲のこと(4)

 震災の年の秋から、ほぼ月2回の割合で勉強会を始めました。早川和男教授の『安心思想の住まい学』という本を会議の前にみんなで声を出して読みました。私はお茶の用意をし、当番がお菓子を買ってくるというリズムができました。予習をしてくるすごい人もいました。
 「学習会って、勤めの頃にようしました。それ以来」「ここに書いてあるとおりやわ。住宅は人権や福祉の問題なんや」。女の人が多かったこともありましたが、私もこの学習会が楽しみになりました。
 一方、次の例会までに地主の代理人との間で交渉することや、交渉の準備をすることが私の仕事になりました。今度集まるまでに、何か新たな展望を切り開きたい。でもそううまくいくはずもありません。
「もうあきらめてどこかに家を買う」。そんな声が出るのがとても怖い日々でした。みんな遠い仮住まい先から参加していました。

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<97年9月>すまい・る六甲のこと(5)

 結局、13世帯のうち8世帯が元の場所に戻り、2世帯が市営住宅、3世帯は転出、というのが「はまだ町住まいづくりの会」の総決算です。
 希望だった木造・戸建ては、実現しませんでした。
 かかわって残念だったのはこの点と、随分借金をさせてしまったことです。でも、3室南向きで明るい住まいを、みんなが概ね希望どおりに確保できたことは、誇りです。区画整理や再開発、あるいは純粋の自力再建より、明らかに立派な復興だと胸を張っています。
 個別再建が可能だったIさんに共同再建をすすめに西区へ行ったこと、小型バスを仕立ててコーポラ住宅と京都・美山町のかやぶき住宅を見学に行ったこと、事業の代行者を選ぶときの苦労、起工式や竣工式の餅つき、そして何より地主の代理人との交渉の難しかったこと、などなど、2年間のできごとが楽しい思い出になりました。
 建築専門誌にはよく紹介されたそうですが、近々、「ビッグコミック」に掲載されるそうです。

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<97年10月>記号文化の街(1)

 大決戦・市長選挙が目前です。「たてなおそう神戸・市民の会」は、大西和雄さんを候補者としてたたかいが始まりました。長い準備の日々でした。5月に新社会党は、神戸市政の四半世紀を総括する文書をまとめました。私はこのとき、区画整理などの官製の復興を次のように評しました。
 「被災地の『著しい住宅不足とおびただしい住宅過剰の同時進行』の全ての責任は市長が負うべきである。『バラックの街』『仮設の街』となることを避けたかったいう。しかし、こうしてできた街は何という街か。ハウスメーカーが競って建てたプレハブ住宅の街と化した被災地は、『記号文化の街』とあえて酷評されている。『元どおりにする』ことから出発せず、『元どおりではいけない』ことから出発した復興計画の悲劇である」と。
 「記号文化の街」という表現は早川和男先生門下の平山洋介先生からの受け売りです。個性がなくて、記号でもつけないと、どの家がだれの家かわからない、とでもいう意味でしょうか。

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<97年11月>記号文化の街(2)

 公営住宅は、たしかに「大量に」供給されます。公営住宅、公団住宅、あるいは「民借賃(みんかりちん)」などが、ほぼ神戸市の全世帯に対して、2割ちかくになる予定。「民借賃」とは、民間から借り上げて、公営住宅とよく似た方法で管理する賃貸住宅のことで、略称です。大震災前のこの比率が1割に満たなかったことから、あるいは日本のなかで見る限りは、神戸市の公的住宅の比率はずば抜けて高くなります。
 しかし、倒壊家屋の数など、被害の大きさに見合うものにはなっていません。今回の公営住宅の「最後」といわれる一元募集では、いわゆる仮設割合を、県営では10割に、そして市営では8割に高め、仮設以外の仮住まいからの応募の門を狭めてしまいました。県外に避難した10万ともいわれる人々は、事実上、門を閉められてしまったも同然です。岡山の山陽団地を私も訪ねてきましたが、人々は、もう帰る術がないという孤立感に襲われています。被災者の住宅確保というより仮設「解消」策です。

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<97年12月>記号文化の街(3)

 公営住宅の建設状況を前号で述べました。一方、民間住宅はどうでしょう。
 役所の統計上、被災家屋は棟数でカウントされ(建物被害状況)、着工される家屋は戸数でカウントされ(新設着工住宅戸数)ますので、正確な比較はできません。もともと、全壊も半壊も判定に問題があったことから、ちょっと乱暴ですが、区別に全壊と全焼を合計した「棟数」と、新築の着工「戸数」を比べてみると別表のようになります。
 着工戸数は、震災の年と昨年の合計です。
 まず、はっきりと言えることは、いかに元通りになっていないか!ということです。被害と無関係に数字が並んでいます。地震は弱者を襲いましたが、復興は土地とカネのある順に、ということを物語っています。
 それにつけても、被災6区のうち東半分と西半分の違いがまた目をひきます。
 区画整理の影響もあると思われます。借地の「解決」状況の違いも背景にありそうに思えます。
 そして早くも建設ラッシュは終わりを告げています。

 震災で全壊または全焼した建物被害(棟数)と新設着工住宅戸数(戸数)  95年と96年の累計

 
東灘
 灘
中央
兵庫
 北
長田
須磨
垂水
 西
全市合計
着工戸数
18,058
13,481
 9,460
 8,124
 5,549
 8,750
 7,039
 5,369
 9,864
 85,694
うち公営と公団
 1,648
 2,654
 1,521
 1,351
  592
 1,407
  554
  888
 1,996
 12,611
全焼と全壊棟数
14,024
13,222
 6,409
10,473
  272
20,280
 8,103
 1,177
  436
 74,386
神戸市統計報告 平成9年度NO.2 「神戸市内の建築着工の様子」より
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<98年1月>記号文化の街(4)

 大震災から3度目のお正月を迎えました。紙上をお借りし、ご苦労の続く組合員の皆様に、新年のお祝いを申し上げます。
 昨年は、公的支援の運動に明け暮れました。署名もたくさん頂戴しましたし、夜行バスで何度も国会に出かけました。
 またお世話になった市長選挙は、大きな成果を残しましたが、一方で私たちのような「にわか野党」しかいない神戸の運動の弱さも露呈された気がします。
 明けた今年も、災害被災者等支援法制定の運動と、神戸空港反対の運動に全力をあげます。神戸土建の皆様のご指導とお力添えをお願いいたします。
 さて前号につづき、住宅着工戸数の県下でのようすはどうか。民間住宅も含めた県の「ひょうご住宅復興3カ年計画」は、12万5,000戸。昨年9月までの着工は23万9,000戸、そのうち復興住宅は11万2,000戸から14万9,000戸と推計されています(総理府の資料より)。「計画」は超過達成され、住宅過剰と住宅不足が同時進行しています。

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<98年2月>「すまい復興プラン」(1)

 大震災から3年。1月18日、都賀川公園で3周年の集いを開きました。新しい灘区をつくる市民会議(代表、赤松徳治さん)が開催したもので、岡本光彰さんのコンサート、模擬店、法律相談など、雨のため中止した餅つき以外は予定どおり最後まで行いました。
 「今年こそ公的援助法の実現を」と名づけた集会名のとおり、リレートークでは、災害被災者等支援法の制定を求める声が続きました。西書記長からも、「建設現場からみた被災地の3年間」と題したご挨拶をいただきました。
 準備から終えるまで、多くの人のご意見をお聞かせいただきました。神戸市はあの直後に「緊急3か年計画」、これに対する不評と批判の声に押されて、「すまい復興プラン」を発表し、「住宅建設」を進めてきました。3年たち、公営住宅入居資格の特例などを定めた「特別措置法」も期限が切れてしまい、「3年」の重みがずっしりと被災地にのしかかっています。震災後の住宅政策の問題点をまとめてみたいと思います。

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<98年3月>「すまい復興プラン」(2)

 神戸市の「すまい復興プラン」は、少なくとも3つの点で被災者の願いを無視したものでした。また、専門家や私たち野党の声を切り捨てたものでした。
 過剰供給と住宅不足の同時進行という世界でも例のない深刻な事態が進んでいます。「数」と「場所」をほとんどの人が指摘しますが、私はこれに「形(質)」を加えて、こんにちのような問題が起きている原因だと考えています。
 「すまい復興プラン」の原型になった「緊急3か年計画」をつくる際に、住宅局が行った調査は、間取り、戸数、建設が可能な候補地でした。いちばん大切で皆が知っていそうなこと、つまり、これまでの住み方についての調査が抜けていました。
 若い人は別としても、何十年も木造住宅に住んできた人にとって、鉄筋の中高層はなじめません。ところが、民間住宅には「協調建て替え」と「共同化」、公営住宅は鉄筋、ということが大前提として押しつけられました。今風の「長屋」であるコレクティブハウジング(共同居住)についても、神戸市は否定的な見解を示し続けました。

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<98年4月>「すまい復興プラン」(3)

 コレクティブハウジグ、共同居住を提案したのは大震災の一年前でした。震災後も同じように本会議でただしましたが、「北欧では当たり前になっているようだが、日本ではどうか」という市長の答弁に終始しました。全国から駆けつけた福祉の専門家や学生ボランティアが兵庫県を動かし、とうとう少ないながらも実現はしましたが・・。
 四畳半一間の地域型仮設住宅も、コレクティブハウジングへの過渡期の仮住まいとしてなら高い評価を受けることもあるかもしれませんが、今のところ「先のことはそれぞれ自分で」ということになっています。
 そして、もっと大きな問題は、民間住宅の「質」というか「形」の問題です。神戸市が発表した「復興カルテ」によると、灘区で被害を受け、解体したマンションは900戸であるのに、再建されたマンションは8,700戸、東灘区では2,200戸に対して、12,000戸です。私も接道条件と借地の問題があって、共同再建に力を入れた手前少し心が痛みますが、あまりにも、マンション一辺倒だったということが数字でも明らかになってきました。

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<98年5月>「すまい復興プラン」(4)

 すまいの「形」の問題で、従来の住み方を全面的に否定する事例は、再開発です。灘区の六甲道で約6f、新長田で約20f、前例のない巨大な再開発計画が、震災直後に決定されたのはご存知のとおりです。区画整理も残酷ですが、第二種市街地再開発と呼ばれる手法は震災で残った建物まですべて行政が買い上げて、再開発ビルに権利を移すやり方ですから、その意味では強引な「移住計画」です。
 画一的に建設される超高層や高層のマンションにほとんど強制的に入居させられることになります。すべての完成まで10年、この間の苦労だけ考えても気が遠くなります。「完成すれば地価が上がる」「土地の高度利用」・・うたい文句と現実の苦労の間に大きな落差がある上、なかには再開発ビルへの入居を断念せざるを得ない人も続出しそうです。
 長尺ものの材料をどこに置くんですかと工務店の仲間。店舗付き住宅でご商売をしていた人は、店舗と住居が分離されると経費がかさむと心配しています。何より、資金の目処が立たないと多くの人が途方に暮れています。

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<98年6月>「すまい復興プラン」(5)

 「すまい復興プラン」は、数と場所に加えて形や質に問題があります。 「数と場所」では、とりあえず人気が集中しているのが岩屋の南、神戸製鋼跡地のHAT神戸。最初に名前を聞いたときから、「誰のために建てるんだろう」と首をかしげてしまいました。「ハッピー・アクティブ・タウン」というのです。
 小学校が2つという規模の巨大な町の出現です。灘区側は「摩耶海岸通」。水道筋方面から六甲道駅などを巡回するバスを通せと要求してきましたが実現していません。買い物は阪神バスで三宮という人が多いようです。1,300世帯が灘区に帰ってきても灘区の小売店の復興にはあまり寄与しそうにありません。
 やっと車イス住宅に入居が決まったFさん(一人暮らし)は、風呂と部屋を自分の障害にあわせて改造してほしいと言っています。住宅局は「住宅改修助成」と、「貸付金」を使って、これを改修しようとしています。Fさんは、新築の障害者用住宅で、なぜ改修が必要か、なぜ改修費用を負担しなければならないのか、また税金の無駄づかいだと、納得がいきません。

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<98年7月>「すまい復興プラン」(6)

 神戸市内の新設住宅着工の統計によれば、震災翌年の一昨年(平成8年)、史上初めて、「工事費予定価格」が1兆円を突破しました(平成9年度版の『神戸市統計書』)。震災前に5,000億円台だったことからすると、すごい額です。
 ただし、構造別に見た「木造」は約2,000億円。ツーバイやプレハブを含んだ数字です。また、16兆円という被災地全体の復興特需からすると、この1兆円は決して大きくありません。しかも、この年が早くも建設のピークでした。
 被害家屋がほとんど木造だったのに、そして長い間、日本人は木造住宅に住み続けてきたのに、完成した建物のなかで木造はごく一部です。余りにも急激な変化です。
 様々な問題が生じています。「70過ぎて、引っ越ししたら、死ぬかボケるか、けがするか」と、早川和男教授は、震災前に警告していましたが、神戸市の「すまい復興プラン」は、避難所〜仮設〜災害公営と何度もコミュニティを壊し、しかも住み方、暮らし方まで変えてしまいました。災害公営へ入居してからの自殺が目立つこととも因果関係を探る必要があります。

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<98年8月>「すまい復興プラン」(7)

 参議院選挙では暖かいお力添えをいただき、ありがとうございました。ご支援にお応えできず申し訳ありません。力のない者が一夜漬けで勉強しても成績はこの程度と、厳しいお叱りをいただきました。でも、出来の悪い子ほどかわいいとも言います。これに懲りず、新社会党をお育てくださるよう、お願いいたします。
 7月3日に終わった市会定例会で決まった景気対策の補正予算は748億円。そのうち、六甲アイランド南の埋め立てと区画整理だけで実に531億円です。「カネがないなかで、ようがんばった」と与党が自画自賛する「支援金」の規模が540億円ですから、これと比べると、ゼネコン、マリコンにはいかに大盤振る舞いかがわかります。早くも、「すまい復興プラン」は打ち止めです。
 区画整理地区では今から家屋の解体が始まります。一部は仕事になりますし、「景気にプラス」ですが、琵琶町でも六甲町でも、判で押したように住販メーカーの「○○邸新築工事」の看板が並んでいます。
 そして問題は、仮換地が決まっても、いっこうに建築が始まらない空き地が目立つことです。

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<98年9月>「すまい復興プラン」(8)

 住まい復興プランには、「数と場所についての欠陥」という本質的で、ひろく指摘されてきた弱点があり、3年たった今日、新しいプランが必要です。「数と場所」に加えて、「質」も大問題だと書き続けてとうとう7か月たちました。いよいよ、「数と場所」の問題に移りたいと思いますが、ちょっと今回は休ませていただいて、空港問題。
 このニュースがお手元に届く頃には署名運動も最高潮かと思います。
 ある受任者からの疑問――。「地下鉄も掘ってることだし、もう止まらん?」違いますよ。あの地下鉄は和田岬から長田の方を向いて走るんです。「えーっ。誰が乗るの?」だから市長に聞こうって。またある人は――。「飛行機にあまり乗らん人が反対しとる、っていうけど?」毎日のように乗ってる人も、旅行社の人も心配してます。
 考えれば、5年前に反対の声をあげて社会党から放り出され、市会のなかで四面楚歌だったとき、空港問題がこれほど大きな問題であり続けるとは思っていませんでした。いまだに市会のなかでは少数派です。市民の皆さんにいつも私は助けてもらっています。

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<98年10月>「すまい復興プラン」(9)

 神戸空港住民投票を求める署名は、灘区ではすでに3万人の目標を超過達成しました。組合の皆さんが絶大な力をお寄せいただいたことにあつく御礼申し上げます。
 さて、空港問題と住宅問題は実は密接に関連しています。
 神戸市がつくった「すまい復興プラン」では西神や北区、垂水区などの市有地が復興住宅の用地として選ばれました。一方、希望者の多い地域には、「用地がない」という理由で少ししか建てませんでした。
 本当に「用地がない」のか? ポートアイランドU期の、広大な空き地をご覧になった方も多いかと思います。土地の売り出しを始めて2年、進出企業に固定資産税の減免など手厚い優遇策を講じても、土地は売れず、「処分予定地」は広がるばかりです。なぜ、ここには住宅が建てられないか。空港計画さえなければ、それも選択肢の一つでした。でも、騒音の問題もあり、最初からポーアイU期は住宅建設の候補地としては外されていました。神戸市によれば、390fものだだっ広い土地は「住む人がゼロでなければならない」のです。

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<98年11月>「すまい復興プラン」(10)

 「すまい復興プラン」は被災者無視で、しかも画に描いた餅でした。少ししか建てなかった仮設住宅の空き家問題もさることながら、分譲住宅に問題がもっとはっきり現れています。神戸阪神地区の昨年一年間の民間売れ残りマンションは1,445戸に達し、今年1月から8月には3,800戸が売りに出されて、そのうち800戸が売れ残るという惨状です。不動産業者は「公営を造りすぎましたか」と言いますが、仮設だけでもまだ移転先の決まらない人が1,000世帯あります。
 県の住宅供給公社は、新築の分譲が売れ残り、加えて倒壊マンション支援策として買い取ったマンションのうち売れ残りが800戸もあることから、来年以降新規建設を凍結しました。
 「一番効果のある不況対策は住宅建設」とかねてから言われてきましたが、今回は「不況だから住宅を建てない」ということになるわけで、いよいよお先真っ暗です。復興行政の失敗が次々悪循環を招いています。
 神戸市は宅地分譲も住宅建設も手控え、市会がおとなしいから市の公社分譲があまり売れていないことは問題になっていません。

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<98年12月>「すまい復興プラン」(11) 

 国連NGOハビタット調査団代表のスコット・レッキーさんが11月9日から11日まで被災地・神戸を再調査しました。『朝日新聞』が25日付の「人」欄で取り上げています。
 レッキーさんは震災の年に神戸を訪れ、「利用できるあらゆる手段を用いて必要な措置を講じなければ神戸と兵庫県はごく短期間のうちに日本の“ホームレスの首都”になってしまうことを深く憂慮する」とまで警告し、その報告書は有名になりました。被災地の全住民に対して「居住の権利」が保障されなければならないことなど14項目の「勧告」が、神戸市にも提出されました。
 今回、レッキーさんは灘区を訪れHAT神戸の復興住宅群を見学し、強引な再建決議に対して訴訟で居住権を守ろうとしている桜ケ丘のグランドパレス高羽へも、訪れました。私はレッキーさん受け入れの準備段階から楽しみにしていながら、住民投票の市会がにわかに始まり、それに追われてとうとうレッキーさんには一度もお会いできませんでした。残念でなりませんが、神戸市への再勧告など、明快な発言が大きな財産として残りました。

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