このページは下に付け加えていきます 中断したままでしたが、2017年2月2日、母・井上たみは97歳の生涯を閉じました。下に少し振り返っています。 |
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母・井上たみが生まれたのは三重県の甚目(はだめ)村で、1919年・大正8年3月25日でした。
第一次世界大戦が、ロシア革命やドイツ、中国、朝鮮半島をはじめ世界で起きた革命運動に恐れをなして終わり、青年が戦場から帰ってスペイン風邪が拡散し、4千万人が命を落としたピークは、その前年でした。同学年の子どもが少なく、母はその後の進学などが楽だったと振り返っていました。母の父は国鉄勤務で亀山、八尾、柏原、郡山、五条、湊町(現・難波)などを転々としました。
同世代の方々と同じように苦しみ、楽しみ、喜び、哀しみ、怒り、「生きた」、同じ苦難の経験を重ねました。
母がその父母から離れて武庫川高女に就職した直後、駅長だった父親が若くして他界、官舎を出て、三重県に帰りました。津高女の教員として母娘2人が、始まった太平洋戦争のなか、心細い暮らしだったと想像します。男が大陸へ行き姿を消し、やがて結婚した私の父は、敗戦の年に予科練の「海軍教授」として土浦へ「単身赴任」してしまいます。女学校での「職場結婚」で、予科練を志望した事情は「それが分からない」と母は言っていました。一人っ子で、家督相続を定めた民法下、「家」が婚姻を許可する時代、母は貧乏な青年と結婚し、母の母は義弟の養女になります。
敗戦の年に長女・和子が生まれ、7月には津で空襲に遭い、8月15日を迎えました。睡眠不足と空腹で、終戦は喜び以外の何ものでもなかったと語っていました。
夫(私の父)は「戦犯」で復職がかなわず、やがて天理中学に単身赴任、私が生まれる前に母は退職し、天理での生活を始めた直後、夫(私の父)は結核で亡くなり、また津へ帰らざるを得ませんでした。
母の父が心筋梗塞で亡くなったのが1941年・昭和16年、母の夫が亡くなったのが1951年・昭和26年でした。結核、最後の大量死の年です。ストレプトマイシンは10年前にアメリカで完成していました。母はこの10年間に2度、家族を失って故郷に帰りました。
同世代の方々が苦難を味わった自然災害にも、遭遇しました。
「大阪駅前に赤十字のマークがついたテントが張られ、救護所ができていた」関東大震災は4歳半のときでした。津空襲から9年後、建てたばかりの自宅は13号台風で畳の上、30センチほどまで水浸しになりました。津空襲から10年後の同じ日、女子中学生36人が命を落とした橋北中学校の海難事件。母は津女子高に「復職」していましたが、義務制の教員異動では当時の在籍教員を2年に一度、転勤させました。伊勢湾台風は津市のほぼ真上を駆け抜けました。そして神戸で阪神淡路大震災。「火攻め、水攻め、揺すり攻め」と語りました。災害でいのちを落とす人たちは「あとに残る人、不条理をただし、みんな仲良う暮らしなさいと言っている」というのが口癖でした。
母の母の晩年は「脳軟化症」と診断され、「恍惚の人」となりました。息子(私)とその先輩や同僚が、医療生協をつくり、医療生協に関わる話をとても喜んでくれました。男はみんな早く死に、女は長生きして「恍惚の人」となった経験から。
母は定年後、神戸に引っ越して、何度目かの人生の再出発をし、三十数年間を神戸で暮らしました。鶴甲白寿会や同じ団地の皆さま、四号館の皆さま、ろっこう医療生活協同組合、社会党や新社会党、愚息・私の選挙などで、新しい多くの友人の皆さまに、暖かく迎えていただきました。墓参りをし、旧友を訪ね、さいたまの長女宅を訪ね、旧友たちと長い電話を楽しむ日々でした。保育所の送り迎えに始って、神戸とさいたまの4人の孫の成長を暖かい眼差しでサポートしてくれました。
母は2004年、85歳の誕生日の翌朝、卒中・脳梗塞で倒れ、このとき初めての入院生活を経験しました。以来13年、長い車いすでの生活となりました。谷口敏光先生をはじめとする、ろっこう医療生活協同組合、県の障害者施策、神戸市の介護保険制度の下で、ご近所の皆様にお支えいただきました。
妻にはずいぶん厄介をかけました。私が母の隣の部屋で寝るようになったのは2011年の夏からです。ベッドから車いすへ移り、トイレにも自力で行ける状態がしばらく続きました。私の唯一のサポートは入浴介助で、これは2016年夏からシャワーだけとなりました。
リハビリ中心のデイサービス「あらたか」に通いましたが、心身の衰えはすすみ、昼も眠っている時間が増えました。2015年7月からケアマネージャーも、ろっこう医療生協に代わり、とががわへの泊まりが徐々に増えました。とががわでのケアに母も私たちも感謝の気持ちいっぱいです。
ベッドの母は、どんな夢を見ているんだろうか考えました。子どものとき、柿の木から落ちて右腕を骨折した頃の、父母がいて、とても楽しかった頃のことだったでしょうか。武庫川高女に勤め、下宿先の子を連れて六甲ケーブルに並んだその行列の長かったときのことだったでしょうか。日曜日に歌を歌い、水害のあと年中行事となった、畳をあげて干し、床下に石灰を撒き、窓ふきをした頃のことだったでしょうか。女子高で、縫製工場への就職がままならない時代を迎え、家庭科教育のあり方を同僚と論じた頃のことだったでしょうか。・・・・・
2016年12月29日から2017年1月26日まで灘診療所に入院し、肺炎、心臓弁膜症の緩和治療をしていただきました。その前後を、小規模・多機能施設とががわで24時間、看ていただきました。
勧めていただいて私も、とががわに年末一泊し、退院後、亡くなる前の日も、母のベッドのとなりで寝ました。3泊目、2017年2月2日22時35分、母は静かに息を引き取りました。
実は3月26日に母が脳梗塞で倒れ、85歳にして初めての入院生活を始めました。幸い、知覚などは難を逃れ右手に重い障害と、言語および右脚に軽い障害が出ました。倒れて3時間後に点滴を始めていただき、4日めからは日中、車いすの上で新聞などを読んでいます。
少しも筆の進まない「椎間板ヘルニアのページ」にかわって、看病観察日記をつくろうか、などと馬鹿なことを・・・。母の第一声は「介護ロボットが間に合わなかった」。私もイニシャルはITなのですが、母も同じくイニシャルはITなのです。
もちろん「介護ロボット」を使うのは介護労働者であって、家族やヘルパーが要らなくなるわけではありません。資本組成の高度化が利潤率の・・・・・・ムニャむにゃ不勉強・・・・・・強がりで炊飯器や洗濯機があるから家族は要らないという人もいないではありませんが。
脳梗塞の原因・法則をまなび、たたかう200万人の皆さん。その予備軍の皆さん。可能性を広げ、夢と科学とITを武器にがんばってください。病院スタッフの皆さん、お世話になります。
なおご心配をおかけしている母は、倒れてきのうで2週間、リハビリが本格化しています。7日、いとこ2人と私が見学した日から平行棒の間を20歩も歩けるようになりました。
今どきの病院は、介護ロボットこそありませんが、「お見舞いメール」というサービス(まさに文字どおりサービス)があります。えらい時代になったものです。そう悪い意味ではなく。
右手に相当の障害が残りそうですので、キーボードを左手だけで叩く練習をいずれしなければなりません。SHIFTキーを押しながら%とか( )を書くのが難しそうです。それにマウスの操作も、やってみると結構難しいものです。でも一応キーボードはクリアできるとして、神戸空港ターミナルビルに完備するという「左ききでも使えるトイレ」が要りそうです。
神戸市会「議員厚生会」が全員対象の「研修会」を開きました。きょうは「脳血管疾患の予防−−脳卒中と痴呆」と題して神大名誉教授の岡田安弘先生でした。
母の脳梗塞は3週間。何ともタイムリーな勉強になりました。われわれが宿っている「脳」という1.4sほどの物質の不思議。細胞膜が生命と環境を隔てる鍵を握っている・・・と。少し理解不足でしょうか。
「神戸市住宅改修助成事業」は、介護保険になって全国化したとき、危うく残った制度です。新年度から所得制限が強化されました。きわめて個人的な理由から(介護観察日記)「事業(制度)」は申請してみないと全体像がわからないということを、改めて思い知りました。
制度変更のポイントを神戸市は次のように説明しています。
1.利用者の負担能力に応じた受益と負担の適正化を図る
2.他の類似制度(介護保険)との均衡を図る
3.県の行財政構造改革推進方策に合わせた制度の見直し
早い話、所得制限の強化なのですが、介護リフォームが必要となることがなぜ「受益」なのでしょう。なぜ、介護保険の負担率や県の行革に合わせなければならないのでしょう。♪なんでだろ〜♭です。「これまでは適正でなかった」「これまでは均衡がとれていなかった」「これまでは県の行革と歩調を合わせていなかった」のでしょうね。
母の場合、実は介護保険対象のリフォームを検討中に脳梗塞で倒れました。3月26日に倒れ、それ以後、介護保険対象外のリフォームが必要になりました。4月1日が新年度。介護保険対象以外は全額自費でというランクにならないようにするためには、もう少し早く倒れればよかった?それなら「受益」者となれた、のです。う〜ん。熱が出そうです。
さて「母の場合」ゼニカネ(切実ですが)の話は置くとして、制度をつくった時期の意気込みを活かすことのできない変遷をたどってきています。当初から措置制度ではなかったのに、「必要、最小限の助成」ではありました。当時の福祉事務所で「困っている人はたくさんいる」と苦情を逆に担当者から聞かされたこともたびたびありました。
昨年の外郭団体に関する特別委員会などで質問したことや、今回の「申請」で明らかになったことは以下のとおりです。お問い合わせ歓迎です。
1.おもに経済的理由で在宅希望者すべてを救えない。(私の課題として)先進例の江戸川区などの現状調査が必要
2.症状が変化する高齢者にとって要件緩和が必要
3.要介護認定の不合理(症状が悪くなると「受益」者となれるが、軽い症状でいたいという願いは無視される)
4.申請から在宅ケア研究所の調査まで3か月もかかる(新年度から改善の見込みではあるが・・・)
5.脳血管障害で倒れた場合、急性期病院(3週間)、リハビリ病院(3か月)で過ごし、症状固定した時期に要介護認定を受け、それから申請、(一定時期を置いて)調査。退院にはとうてい間に合わない
6.申請に必要な書類(所得証明など)は、一人暮らしでは集められない。ケアマネージャーや福祉コーディネーターの権限、行政の職権がケースによって発揮されるべきではないか。委任状の不思議
7.すまいるネットでの集合住宅改善助成との組み合わせや、制度の周知が不十分
8.集合住宅(分譲でも)では1階などへの住み替えを可能にするコミュニティづくりが必要。さらにデイルーム(昼間に高齢者が過ごす共同スペース)やグループハウスへの改築助成が必要
2004年5月26日(水)
闘病観察・5
母が脳梗塞で倒れてきょうで2か月になります。栗本慎一郎さんが闘病記で書いていますが、ガンの闘病記と比べ、脳梗塞の闘病記は理由があって少ないそうです。それでも出版大国日本のこと、もう少し探して読むのが任務だと思います。
介護問題が語られ、運動し、また自身も勉強したのは、80年代後半から90年代にかけてのことでした。私自身の周囲の話であるとともに、日本で社会問題として「登場」したのはその頃だと思います。
「老人性痴呆症」というコトバの誕生は、この頃であり、明治25年生まれの祖母が痴呆症になったあと脳卒中を突然患い、寝たきりになった(母が倒れたあと、母がそう回顧した)のは60年代の終わりで、間違いなくその頃このコトバはありませんでした。有吉佐和子の『恍惚の人』を読んで「ああ、うちのおばあちゃんと一緒や」なんて言ったものです。
学会や病院でどう呼ばれていたかは知りませんが、脳卒中も「中気」とか「中風」と呼ばれていました。「脳の病気」というより、やさしい農耕社会が生み出したコトバらしく、やさしい感じを受けます。「風にアたる」などは特に。
漬け物が好きだったからとか、酒の飲み過ぎだろうとか、自己責任と切り捨てる冷たさはこれらのコトバには含まれていません。原因がはっきりしなかったこともあるでしょうが。
母はリハビリ専門病院で忙しい毎日を送っているようですが、どんなによくしてもらっても、長くいたいと思う場所ではありません。「根気」という脳の働きに今回、障害がでなかったことも幸いでした。「かすかに親指が動く」・・・とても嬉しそうでした。
以上、ローカル・フォルダに置いていたものを再アップしました。